昭和53年2月13日 朝の御理解
御理解第45節
世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。
信心さしてもろうて、いよいよ身代も、日勝り、年勝りに出来てこなければならない。人格も先生といわれる位の人格を頂きたい。身代が出来たり、先生と言われるようになると頭を下げることを忘れると、言うふうに言うとられますけど、私共がなんぼ身代が出来ましても、なんぼ人から先生と言われ、旦那様と言われるようになりましても、おかげを落とさんで済む道を私は信心だと思います。でなかったらもう信心じゃない。
身代が出来たからというて、人からこうちやほやされるからというて、慢心を出すようなことでは、もう御道の信心を頂いとるとは言えない。それは極言するとそういうことになります。御道の信心さえピッタリと頂いておれば、頂けば頂く程、有難い、勿体ないがつのってくるはずである。ですからそういうおかげを頂きたい。
そのために、どういう信心をさせて頂いたら、家業即ち信心と、信心即ち家業だと、反対にもってきて表現するとだから同じようですけども、実は大変な神が違ってまいります。金光様の御信心はどこまでも信心即ち家業。
最近、家業こそ、心行こそ、御道の修行だと。もう全て、どういうことにあっても修行のないものはありません。ましてや信心です。修行のないはずはありませんね。家業こそ心行こそ御道の信心の修行だと。これは金光教のいうなら独自性というか、独壇場というところはこの辺にあると思うです。信心即ち家業。
テレビのコマーシャルに松竹梅のコマーシャルがありますね。あれは宇野重吉というですかね。そすと何とか慎太郎の弟、なんとかというですねあれは、なんちゅうかね、ああ石原裕次郎、ふたりでねやっている。「悲しいことはと、娘に恋人が出来た時だ」と宇野重吉が言っています。なら嬉しいことは「その相手である男と一杯飲む時だ」とこう言ってますね。本当に娘をやることが悲しいことであろうかね。それは悲しいまでの実は喜びである。
後で考えたら、そういうことになるのじゃないでしょうかね。永年手塩にかけてきた娘を、他人にやらなければならない。本当に淋しい、悲しいことかも知れませんけれども後で考えてみると、それは有難いことであり、嬉しいことであり、めでたいことである。娘婿程、可愛いものはないと言う人もあります。その可愛い娘婿と一杯差し向かいでやる時程、嬉しいことはない。どちらにしたところで嬉しいことなんだと、有難い、有難いことなんだとね。
世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれる。それこそ肉眼をおいて、心眼を開かねばならん。そういう心眼が、段々こう開けてきた。神様の心も少し分かるようになってきた。問題が問題でなくなってきた。難儀と思うておったのは神愛であった。神願であったと分かってくるようになってきた。もう心の目が開けてきたのである。
そして心の眼が段々開けてきて、いよいよ分からせて頂くことは、御道の信心の、まあ天地金乃神様が教祖金光大神に神頼みをなさり、どうぞ難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれというその取次ぎ助けるということはどういうことか。悲しみ即ち喜びであり、喜び即ち悲しみであるということではないね。
私は、今日皆さんに聞いて頂こうというのはね、生活即信心、そうではない。金光様の御信心は信心即ち生活だとね。悲しみ即ち喜びである。だからというて喜び即ち悲しみではないということだね。ここまでね、段々分からせて頂くと、家業がそれこそ生き生きとした修行になってくる。おかげを頂かんならんから、家業を修行と思わねばならんといったようなものとは違うわけね。信心即ち家業だと。
これが私は金光様の御信心の、いや天地金乃神様がね金光大神を通して分かってくれよと言われるところはこの辺だと思うです。信心即ち家業だとね。生きるということの上に即ち家業だ。日に日に生きるが信心ね。教祖様の本当にお言葉というか、表現の素晴らしさ、深さ、広さに唯々もう恐れ入ってしまいます。
信心が即ち、日に日に生きることだ。そういうことになって参りますと、どういうことになるか。日勝り月勝り年勝りね、おかげが受けられるようになるね。いよいよそれに徹した信心が出来るようになれば、もう必ず代勝りのおかげになるでしょう。あの世にも持っていかれる、子孫にも残しておけれる御神徳とはなるわけであります。
こういう例えば生き方を、そういう信心を本気で身に付けていく時です。とても慢心など出るはずがありません。ただお願いして、この頃商売が繁盛しよる。おかげおかげと言いよるけれども、やっぱり自分のやり様がよかけんでこんなに繁盛しよるというような思い方になってくる時に、必ずおかげを落とす。天で頭を打つことになるのですね。けれども信心即ち家業ということになってくる時に、もう有難い、勿体ないがつきるはずがない。 昨日は美登里会で熱心に、昨日の朝の御理解と、その前の日に秋永文男先生ところの家内のお母さんの三十五年の式年祭をそれこそねんごろに、ねんごろに思いを込めて奉仕させて、私が御用をさせてもろうた。文男さんがその思いを込めた、文男さん夫婦、勿論嫁御としては自分の本当のお母さんですから勿論ですけれども、その連れ合いであるところの文男さんが、一生懸命の思いを込めたというところに、成程お話の中に申しとりますように、日勝り月勝りのおかげのちょっとした見本ではあるけれども受けておる事実を聞いてもろうた。そのちょこっとばかり大きいのが実は合楽だというふうに聞いて頂いた。
丁度その時に霊祭が終わって聞いて頂いたお話と昨日の朝の御理解を頂き合わせてです、この御理解をずっと十ケ条なら十ケ条ぐらいに切ってですね、それに私の話を加えていったら合楽の信心の全てをいうことになるなあと言うてお話しをしたことでした。
お互い信心の研修をするならです、なら一昨日の、文男先生の所の霊祭の時に頂いたお話と、昨日の朝の御理解とを合わせて頂いて、それを私が十ケ条なら十ケ条に分けて、それを一つ一つもっと細かにお話をしたら、二時間ぐらいでお話をしたら合楽の信心の全てが、しかも生き生きとしてこう分かるような感じがするねというて研修させて頂いたことでした。
皆さんも一遍聞いて下さい。聞いていない人は、あれはみなさんでもおそらくそれを十なら十に区切ったら、日頃合楽で頂いている教えを、それにずっと肉を付けて、血を通わせたら、立派な合楽の信心がここに浮き彫りされる。そういう信心を果たして私共がどの程度に頂いとるかということでございます。
皆さんが一人一人発表されました中に、安東のお母さんが発表しとりました。先日から一人息子の勇治君の結婚式の前後のこと、もう本当に神乍な神乍なお繰り合わせを頂いて、昨日はそのアルバムが出来たからというて、アルバムを持って皆に見てもらいたいというて、本当にそれこそ何にも無いところから、どうしてこういうことが出来るであろうかというようなおかげを頂いとるわけなんですね。
御商売というものは、資本がなければ出来んということはない。結婚式というものは、金が無ければ出来んと言うことはない、神様のおかげを頂けば、もう本当に間違いのない働きの中にです、こういうおかげが受けられるという、いうなら事実をね、もうお繰り合わせ頂いたことをね、発表しておられました。
あんたんところはともかく勇治君が素晴らしい。あの人の心掛けが素晴らしい。勿論親の永年の信心もあろうけれども、今度久留米のほうに移らせて頂いて、本当に今にして思うと、あれもおかげこれもおかげ、もうどうしてこういうことになって来たであろうかというようなおかげを実感して、その実感をお話にしておる中に、日赤ゴムの仕事をしておられます。
先日も品物を納めに参りましたら、向こうの偉い人が、安東さんあんたん所で造ってもらっているのが今の時代にあんまり受けんごとなった、だから今までの、ほかのものは工賃が上がったり、物が上がったり、あんたん所はそれに反比例して安うもすこし値段を、工賃を下げたいと思うといわれた。そりゃ今でもやっとかっとですから、そげなことをいうてもろうちゃ困りますと、まあ言うだろうと思っておった。ところが、はあ喜んでさせて頂きますと言うたげな。もうお父さんとお母さんポカンと口を開けてから、まあこの人ばっかりはどうしたことを言うじゃろうかと思うたち。ああ喜んでさせて頂きますと言うたげな。あまりのことにですね、その偉い人がですね、とうとう下げてくれを言わんなりにしまえたということです。
私はそれを聞かせて頂きよってね、金光様の御信心、いや合楽で御信心を頂いておって、段々に信心がね出来てきたらね、儲かるからとか儲からないからとかと、合楽の信心を本当に身に付けていきよったらね、即座にそういう答えが出来るくらいにならなければ、今日の御理解はわからんですね。いうなら儲かるからの家業であるとか、儲からんからの家業というのじゃない。信心即ち家業なんだからね。その辺の所からです、それこそ天地がひっくり返るような働きが起こってくるのですね。
ああ神様にお願いしてから、心の中に念じながらね、そげなこと言わんで今まで通りにして下さいと言いましたといったような所でおかげを頂いたら、おかげを頂いた。そういうおかげではつまらんちゅうこと。教えがね、本当に態度の上にも、言葉の上にもその現れて出てくる。それがです。例えそれが今までより安くなって、いよいよ生活が厳しくなるだろうけれどもです、喜んでさせて頂きますというそれなんだ。
私がこの頃、口を開けば言う家業こそ道の修行だと。そのことを今日は、信心即ち家業というふうに聞いて頂きました。家業。信心の中に家業があるんだと、これがほかの宗教であったらです、水をかぶった、断食をしたね、一生懸命に御祈念力を作った。それが修行ということになって、おかげを受けたということになるわけですけども、金光様の御信心はそうではない。これは日勝り月勝り年勝り、しかも代勝りにおかげを頂いて、絶対の道なんだね。
そういう信心を身に付けていく限り、私は先生と言われても、旦那様と言われても、どれ程身代が出来た上に出来ていっても、慢心が出るようなことはまずはなかろうと思いますですね。
今日はお互い本当に身代も出来なければならない。先生ともあがめられる程しの人格も頂かねばならない。そういうおかげを頂いた時に、おかげを落とさんで済む信心とは、信心即ち家業だというような信心がですね、いよいよ血肉になっていかねば、いわゆる御理解百節にありますように、めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないかと、生神金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃと、お取次ぎを頂き頂き、商売繁盛を願っていけといったような道じゃないということ。信心即ち家業だと。悲しみ即ち喜びであって、喜び即ち悲しみではないということ。
そのところがいうならば、一番踏みづけにしてご無礼になることはですね、勿論三宝様とここでは表現しとられますけども、神様の御働きそのものをね、踏みつけにするほど、ご無礼になることはないということ。だから起きてくる全て成り行きを大切にするということやらは、神様の御働きをそのままに有難し勿体なしで受けることなんですね。
腹の立つような問題があったから腹立てたと。当たり前のごとあるけどもね。それは御道の信心が分っとらんから腹が立つのである。腹の立つようなそのこと自体に、喜びで受けなければならない。神願有難しと受けていかねばならない。
喜び即ち悲しみではなくて、悲しみ即ち、悲しいことのように見えとるけれども実は喜びなんだと。娘を貰ってもらうということは、こんなめでたいことはないのだと、ちょっと寂しいごたる悲しいごたるけれども、その証拠には娘婿と一杯やるとが一番嬉しい喜びだと言っておる。ですから私共は初めから、のっけからそれを喜びとして受けていくということが御道の信心であり、天地金乃神様が金光大神を差し向けて信心を取次いでやってくれといわれる、お取次ぎの中身というものは、そういう今日聞いて頂いたようなことが中身であるということをね、分からせて頂いての信心であり、身代が出来るであり、先生と言われるようなおかげを頂くのですから、もうそこに天で頭を打つようなことが起こってくるはずが無い。ただお取次ぎを頂いて、お願いをして、おかげを頂いた。はあおかげ、おかげと言いよったがしまいには、自分のやりようが良かったけんでぐらいなことになってきたら必ずおかげを落とすです。また神様が取り上げなさらなければならんごと必ずなっとるです。これはもう一つの法則です。
その人一代が例えば持ち伝えてもです、答えてもです、子になって孫になっておぶすぎますから必ず取り上げられるです。持ちきらんです。ですからね、お互いが信心によっての身代でなからなければならない。しかもそれは限りなく。
私は昨日研修の時に、私がこれほどに家業こそ道の修行だと、この生き方でいけば必ず日勝り月勝り年勝りのおかげが受けられる。そのことを中島の上滝さんが発表しとりました。本当に日勝り月勝り年勝りに段々おかげを頂いてきた。ここまでおかげを頂いてきたが、これから私がどういう信心をしたらこのおかげを落とさんで済むでしょうかという、いうならばそういう疑問のようなものも最後に結びに言っとりました。
だから本当にあんたぐらいに家業を行とした家庭の中での信心を、そのまま信心でいったから日勝り月勝りのおかげを頂いたけれども代勝りということは、これは御徳の世界なんだ。あんたがおる間はますます繁盛していくだろう。けどもこれを代勝りに、子供にも孫にも伝えていくためにはですね。昨日、天の真、地の心ということを頂きましたね。いうなら天真地心です。だから天の真によって、日勝り月勝りのおかげを頂いてきたんだからね。いうならば地の心と。この地の心というのは辛抱力が出来るということなんだからね。眠たいけん、体が弱いけんというて、さあ月に何遍がどんお参り、そげなことでは御徳は受けられないよ。代勝りのおかげにはならないよというてまあ話したことでしたね。
家業即ち信心という程度に感じられますですね。だからそれではおかげにならん。本当の徳にはならん。だから信心即ち家業だというような信心の内容を頂きますなら、天で頭を打つようなこともない。油断をすなとこう仰っておられる、油断がでるようなこともまずはなかろう。それこそおかげはいつもリズムに乗ってやってくるんです。ただお願いをしておかげを頂いたというようなもんじゃ、必ず自分の慢心が出ますね。自分が働きが良かったけんのごとなってくる。
ところがです。今日私が皆さんに聞いて頂いとるようなおかげを頂いて参りますと、それこそおかげの方が、身代の方がリズムに乗ってやってくるんですからおかげを落とすはずがないです。リズムが聞こえてこない身代なんかは、それはほんなものじゃないということになるですね。リズムに乗ってやってくる。はあ何という勿体ないこっちゃろうか。何という有難いことであろうかと、もう神様の御働きにはただ恐れ入ってしまうという身代なんですから、おかげを落とすことはないでしょうがね。
今日はそこん所を、おかげを落とすな、油断をするなと言っておられるが、油断が出んで済む、おかげを落とさんで済む信心を今日は聞いて頂きましたですね。どうぞ。